モスクワ・サンクトペテルブルク旅行記⑱ サンクトペテルブルク4日目① 旅路の果て
ピョートル大帝、エカチェリーナ2世らの系譜を繋ぎ、長く続いたロシア帝国は、第一次世界大戦とその後の激動で共産主義国家にとって代わることとなった。その流れの中で、皇帝一家は悲惨な終末を迎えることとなり、数十年もの間歴史の闇に葬られたのでした…。
そのせいで、皇女アナスタシアを始めとする、数々の生き残り伝説が世を賑わわせ、ロシア皇族の存在が世に語り継がれ続けるわけなのですが。こういう、自分を騙る人の精神状態ってどうなっているのか。興味深い。…名乗った人の数が多すぎて日本語版のWikipediaのページがあるの、面白い。
サンクトペテルブルク観光最終日。長い旅路の果てに見たものとは。……そんな仰々しいもの言いをするほど移動しては無いですがね。
ペトロパヴロフスク要塞
ネヴァ川右岸に位置する要塞。英語名は"Peter and Paul Fortress"。ネヴァ川を挟んだ向かいにはエルミタージュが。18世紀初頭、サンクトペテルブルクの街を開いた頃に建設された要塞で、当時北欧で存在感を放っていたスウェーデンを仮想敵とした要塞だとか。要塞としては五稜郭のようないわゆる星形要塞(ただし五角星ではない)。英語版のWikipediaの上空写真を見ると一目で星形要塞と分かる。中央の教会は対岸からも非常に目立ち、これまたサンクトペテルブルクの象徴と言える。
Peter and Paul Fortress - Wikipedia
この施設の性質上、この要塞がロシア革命の舞台の一つになった話もあるようだが、詳しくないので省略。ソ連時代中には要塞としての役目を終えたようで、博物館としての展示が始まったそう。要塞自体が広く、かつ要塞自体が多くの機能をもつ建造物であるため、様々な展示を行う博物館。
ところで、ここに入ろうとしたら早すぎて入り口で止められた。15分も開館時間より早く入ろうとする東洋人2人、なかなか奇妙に映っただろうか。
地球の歩き方を参考にチケット売り場まで行くと、この要塞にはなんと日本語の観光マップが!エルミタージュには日本語の本とかも売っていたけれど、まさかこの要塞に日本語マップがあるとは……。というわけで貰ったのだけれど、まともに使える代物ではなかった(現物が手元に無くて写真を見せられないのが惜しい)。機械翻訳?の似非日本語はもちろん、固有名詞がまともに訳せない、極めつけに英語マップと建物の番号が合わない(もちろん正しい番号なのは英語マップ)。チケットに書かれた英語の建物名と整合させる必要があったわけで、当然英語マップを参考にすることに。もしよければ日本語版作りましょうか?と言いたくなるレベルで酷かった。
ペトロハヴロフスキー聖堂
ペトロハヴロフスク要塞の中心に位置する教会。サンクトペテルブルクの建設初期に建てられ、ピョートル大帝以降のロシア皇帝たちが眠る。
遠くシベリアの地でその生を終えたニコライ二世らは、その後80年以上もの月日が経ってから、故郷サンクトペテルブルクに帰ってくることができた。長い旅路の末、ようやく穏やかに時を過ごすことができる場を得た彼らの姿を見て、私はどこかで涙を流しそうになっていた。サンクトペテルブルクで最も印象に残っている場所は、私にとってはここであった。
自分の信じる宗教であろうとなかろうと、宗教的に大きな意味のある場所は何か聖なるもの、とでもいうのだろうか。精神に訴えかけてくるものを感じる。これはロシアを旅する中で様々感じてきたが、その中でも最も重厚に感じたのはここだった。
ここからは要塞内のその他展示。要塞といっても軍事色の強い展示は少なかった。
さて、要塞内の様々な展示を見た我々は、この要塞の向かいにある砲兵博物館へと向かいました。
…が。なんとこの日は休館日。ちゃんと休館の曜日は確認していたのですが、数日前の「祖国防衛の日」の影響でこのあたりだけ休館日がずれていたのでした。そんなのわかるわけが無かった…。失意の我々は、重い足を引きずってまたネヴァ川へと向かうのでした。
→Next